ファクトリー・リセット
    

 後ろからオカンの声が聞こえた。 「クリスマス・イブやで。出かけるん?」 僕は、洗濯カゴから濡れたズボンを取り出しながら、うん、と答える。  シャツ、パンツ、タオルなんかを針金のハンガーにかけて、椅子の背もたれやドアにつるすと、部屋の空気が湿っていく。台所の小窓を開けると、夕焼けと一緒に乾いた空気がとろんと入ってきた。 「クリスマス・イブやで。出かけるん?」 オカンは同じことを話すことがある。 「アリスさんと? ちゃんと責任とりや」 僕はあいまいに返事をしながら、玄関で靴を履く。視界の隅が暗くなった。スマートスピーカーのディスプレイがオレンジ色から紫になっている。そろそろ日没だ。僕は戸締まりをして、キックボードに乗った。  雑居ビルの隙間に、いつもどおりアリスがいた。イルミネーションの光が届かないので薄暗く、顔は見えない。声をかけても返事をしない。腕をとんとんと叩いても反応がない。大声で呼びかけて、肩を強く揺する。それでも反応がない。  僕はキックボードにアリスを乗せるけれど、ぐったりしていてずり落ちそうになる。僕は、立ち止まってはアリスを乗せ直す、ということを繰り返しながら、いつもの十倍くらいの時間をかけてスタンドに着いた。  売店でプリペイドカードを買い、アリスに充電プラグをつないだけれど、充電が始まらない。スタンドの画面にはエラー番号と、店員を呼んでくださいというメッセージが表示されている。  僕に呼びつけられた店員は、めんどくさそうに端末の表示を確認してから、のろのろとマニュアルを読み始めた。アリスは動かない。  このアンドロイドはバッテリーが減りすぎて、外部刺激に対して応答しないモードになっている。わずかな残留電力は、内部メモリーの保護と、本気の緊急対応用に使われる。工場出荷時の状態に戻す「ファクトリー・リセット」をすれば、再起動できる。  店員がそんな説明をした。ファクトリー・リセットすると、メモリーが、つまりアリスの記憶や人格が失われてしまう。メモリーを保護できないかと、僕は尋ねる。店員は、保証外の復旧作業はできるけれど有料だ、と言って、料金表を出した。大した金額ではない。でも、ホームレスの僕には大金だ。手間がかかってもいいから無料でメモリーを残せないか、と、僕はさらに食い下がった。  店員はため息と舌打ちの音を同時に出した。  金をかけずに手間をかけるなんてのは、めちゃくちゃ技術力のある連中の道楽なんですよ。クラウドにバックアップする金がないなら、アンドロイドを持っちゃだめでしょ。あんた、ときどき充電しにくるけど、これ正式に所有してないよね。陸運局に登録してなさそうだし、保険にも入ってないでしょ。事故があったらどうすんの。無責任だよ。通報しないから、どっか行ってよ。  そう言って、店員は売店に戻った。  僕は、落ちていた荷造り用のひもで、アリスをキックボードに固定した。アスファルトが傷んだ道を進み、坂を上がり、かつてニュータウンと呼ばれた住宅地に入った。公園の横を通りすぎる。いつも洗濯をしている公園だ。もう夜中になってしまった。  あたりには誰もいない。僕はアリスとキックボードを抱えて、すばやく、でも静かに空き家の中に入った。 「おかえり」 オカンの声が聞こえる。僕は毛布を敷いて、アリスを寝かせた。そうしたところで復旧するわけではないけれど、他に何もできない。 「それがアリスさん? 動かへんの?」 動かない。起きない。充電もできない。 「修理でけへんの?」 お金がかかる。僕にはお金がない。ちょっと高めの服を買う程度の金を、僕は持っていない。 「このスマートスピーカーを売ったら、そのくらい出せるやん」 僕は振り向いて、スマートスピーカーを凝視する。  あのとき――オカンの身体の寿命が尽きようとしていたとき、うちには金がなかった。バーチャルリアリティに認知モデルをアップロードして、他界させる金なんて、なおさらなかった。だからスマートスピーカーのメモリに、オカンを保存した。  全財産を使い果たし、寂れたニュータウンの空き家に住みついた。電気がとおっているのでオカンをつなげている。他の電力は使っていない。メーターが動くと住んでいることがばれるからだ。 「もうええで。わたしの頃は、死ぬことを他界するって言うててん。バーチャルリアリティなんか、なかった」  ずっとオカンと一緒にいると思っていたから、いなくなる、というのがうまく想像できない。言葉の意味は分かるけれど、僕の行動や生活や金との関係が分からなかった。 「あんたが生まれたときはなぁ」 オカンがしゃべり始めた。何度も聞いた話だ。次の話も、その次の話も。オカンは同じ話を繰り返し、僕はずっと聞いていた。 「もうええで」 と言ったきり、オカンは黙った。  僕はスマートスピーカーの電源ボタンを、一五秒長押しした。 「ファクトリー・リセットを開始します」  窓の外が、紫色からオレンジ色に染まる。

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